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愛と平和の花紫金草4

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誠太郎さんは、老躯に鞭打って一生懸命働き続けましたが、
疲労が重なり、とうとう病床に伏してしまいました。
しかしまたまだ日本中に花を広めなければならない。
「花の種を差し上げます」と、新聞に投稿してくれないか。家族の人たちに話しました。
誠太郎さんは体も衰弱し、眼もかすみ、声も出なくなりましたが、
厚紙とサインペンを用意させました。
手の力もなくなり、意識がもうろうとしている中、
たどたどしい文字で、「しきんそうたのむ」と書き残しました。
これを最後に、次の日、1966年8月19日、誠太郎さんは亡くなりました。
その二日前には、朝日新聞「声」欄に家族が投書した
「花だいこんの種さしあげます」の記事が掲載され、
多くの問い合わせや「種を分けて下さい」という手紙が届き始めました。
その山積みされた手紙を枕辺に誠太郎さんは永眠しました。
79歳でした。
「種希望」の手紙は来る日も来る日も届き、
1日に何度も配達されました。
石岡郵便局始まって以来だと郵便局員の方も驚いていました。
 
その半月後には、その数6000通にも及びました。
たいへんなのは誠太郎さんの遺族です。
種子の蒔く時期は9月中と迫っています。
しかし、お葬式の前後のとりこみの中、
毎日毎日手紙の宛名と返事の印刷作り、種の分包の仕事の連絡。
不足しそうな種の確保もしなければなりません。
このために市内の数十名の方が宛名書きの手伝いを申し出てくれました。
市内の皆さんも協力して、
二ヶ月後には無事種の発送を終えることができたました。
切手は、返信に必要な金額以上にお金や切手を同封してくれる人が多く、
それらは全て福祉団体に寄付しました。
誠太郎さんが亡くなった後の紫金草を広げる運動は、
裕さんが引き継ぐことになりました。
裕さんもまた、ポケットに種を忍ばせ、
空き地を見つけて、種を蒔く作業を続けてゆきました。
花の季節になると、南の方から順に花便りが全国から届き、
平和の春の到来を告げてくれました。
種を分けてほしいと希望の便りは、それからも続き、
それぞれの方々に種に添えて紫金草のいわれや平和の大切さ伝えてゆきました。
紫金草の種まき、収穫、乾燥、選別、分包、発送といった作業は、
裕さんの大切な仕事となりました。
裕さんはこうした活動を生涯の役目として
父親と同様、毎年毎年こつこつと続けて来ました。
 
 
そしてあるとき、平和の花紫金草を世界中に広める絶好の機会が訪れました。
1985年の筑波科学博覧会に
海外から来るお客さんに紫金草の種を配ろうという
「平和の花だいこんを広める会」の運動が、石岡の市民団体から提案されました。
海外からの参観者は100万人と見積もって、
計画では種子100万袋分最低100キログラム、
250リットルという莫大な量が必要になりました。
このような大量の野生植物の種子を、
素人が短期間で栽培育種することは無理難題というべきものです。
平和への呼びかけ文と栽培法解説のリーフレット作製、
万博参加の交渉、種子の栽培は勿論のこと、
選別・水洗・消毒・乾燥・検疫・分包等の諸作業と、
1千万円近い資金の調達をどうするか、
などなど難問題がたくさんありましたが、
裕さんを会長にして取り組むことになりました。
種子は近在の農家や菜園をお持ちの方、
高校の先生、生徒そのほか庭に余裕のある方々が育種に尽力されました。
また以前に誠太郎さんや裕さんが送った種を増産して、
種を大量に送り帰してくれるなどなどで、
計画発足2年後には、初期の目標の2倍量の種子が確保できました。
まさに奇跡でした。
 

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