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愛と平和の花紫金草3

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日中戦争は泥沼化し、日本は国際的にも批判を受けていたのですが、
それでも軍部の暴走は止むことなく、国内生産資源は底を突いてきたので、
戦略資源獲得に南進政策をとりはじめました。
このため日本は、米・英・中国・オランダの経済封鎖(ABCD包囲陣)の抵抗に遭いました。
そして1941年12月8日、とうとう米・英・オランダにも勝算のない自暴自棄の戦争を仕掛けました。
はじめは日本軍は、猛烈な勢いで、南方各地に侵攻してゆきました。
ところが、やがて蚊に刺され、マラリアに感染し、死亡する兵士達が続発しました。
陸軍では悩んだ末に、誠太郎さんに「マラリアの特効薬キニーネを製造するように」と召集令状を出しました。
 
誠太郎さんは、「俺は殺生ごとは絶対にいやだ」と決めていたのですが、
「現地人も苦しんでいる。人命を救うためです」の一言に、
現役復帰ではなく、司政官の身分で、キニーネの製造所長を引き受けることにしました。
早速ジャワ島に派遣され、工場を拡張増設し、原料のキナの栽培を
ジャワ島全島に拡大し、キニーネを大量に製造しました。
オランダ統制下では、キニーネの価格を高く維持するため、生産量を抑えていたので、
インドネシアの民間人は高価で買えなかったそうでしたが、
量産の甲斐があって、多くの民間人も兵士も尊い命が救われました。
現在もキニーネ工場跡地には現地人の感謝の碑が建てられています。
 
戦争は長引き、武器も、食料も、燃料も、人々の暮らしに必要なもの全てが欠乏し、
もう勝つ見込みがないのに軍部は面子にこだわって降服をしませんでした。
その期に及んで、アメリカは遂に広島と長崎にとどめの原爆を落としました。
そして数十万の尊い命が一瞬にして失われました。
当時薬剤官として呉海軍病院に勤務していた裕さんは、
翌7日、阿鼻地獄の広島の救援活動で二次被爆し、戦後しばらく後遺症で悩みました。
この被爆体験が、紫金草平和運動の原動力の一つでした。
 
長かった戦争も終わり、日本にはようやく澄み切った青空が戻りました。
アメリカの統治下に置かれながらも、
人類社会の理想を目指した、世界で初めての平和憲法を日本人の手で作り上げたのです。
そこには日本は戦争をしない国になるという強い決意が込められていました。
 
ジャワ島から帰った誠太郎さんは、
南京から持ち帰った花の種の増殖に、以前にも増して力がこもりました。
この花を植物図鑑を調べても、その名前が判らないので、
「紫金山の麓から来た花だから『紫金草』とする」と決めました。
裕さんが「『すみれ菜』としたら」と言ったら、
「『紫金草』以外の名は絶対に付けるな」と言っていました。
 
長い歴史のなかで中国と深い信頼で結ばれてきた日本が、武力で中国に攻め入り、
南京や各地で起こしたあの痛ましい惨事を忘れないように、
この花を「戦争犠牲者供養の花」として、日本中に広めようと決心したのです。
 
戦争が終わるまで誠太郎さんは、
この花がどこから来たのか、なぜ栽培しているのかを、
家族や知人にも累が及ぶことを恐れて、誰にも話していませんでした。
戦争が終わり、一年後にジャワから復員し、
日本国内にも、家庭にも本当の平和が訪れたとき、
はじめて、南京でのできごとや花の由来を話しました。
そして誠太郎さんは、小さな空き地を見つけては、
花の種を蒔き広めてきました。
ポケットにいっぱい紫金草の種を詰めて、
出かけるたびに、空き地や線路の土手に種を蒔いてゆきました。
 
そのころ誠太郎さんの仕事は、農家の薬草栽培を指導することでした。
腸内寄生虫の駆除剤となるアメリカアリタ草の栽培です。
その粗製品ヘノポジ油の生産は全国の九五パーセントを茨城で占めていました。
県内各地にはその生産組合ができ、県薬草生産組合連合会長に推挙されました。
1953年、石岡に県立薬用植物研究所が設立されると、その所長に迎えられ、
さらに、茨城県薬草協会ができると、その会長に推されました。
薬草栽培は、米作りの数倍という農家の大きな収入源でもありました。
誠太郎さんは、ついでに紫金草の栽培を一部の農家の人にもお願いしました。
その大量にできた種を、走る汽車の窓からも蒔くことにしました。
乱気流で種は列車の車体の下に巻き込まれ、種は遠くへ飛ばないことがわかると、
小さな土団子の中に紫金草の種を混ぜて、遠くへ飛ばすことを考案しました。
東京近郊の線路伝いに咲く紫金草は、こうして誠太郎さんの蒔いた花でしょう。
 

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