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愛と平和の花紫金草2

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誠太郎さんは、6代続く漢方薬店の長男として生まれました。
漢方薬の材料の多くは、中国から輸入され、
その技術も中国から学ぶものが多くありました。
誠太郎さんにとって、中国は先生のような存在でした。
 
日露戦争後には、中国から多くの留学生が来日しました。
誠太郎さんは東京大学時代に、留学生の王長春さんと出会い、
親交を深めていました。
そして、大学卒業の時、王さんの案内で、
上海、蘇州、南京など見学し、それを写真機に収めてきました。
その写真のなかに故郷の筑波山そっくりの紫金山がありました。
そのとき以来、誠太郎さんにとって南京は
心の故郷となりました。
 
誠太郎さんは大学卒業後、
小倉や熊本の陸軍病院に勤めてから、東大大学院に入り、
薬学の分野で人の命を救うことを研究していました。
第一次大戦後の欧米諸国軍事力増強の中で、
ソ連やアメリカから日本空襲があったとき
市民や兵士をどう守るかがテーマでした。
「毒ガスから身を守る方法」
「野外で安全な水を得る方法」
「新しい治療薬の製造法」など次々に発表していたので、
陸軍からも高い評価を受け、
日中全面戦争の前年には、
陸軍衛生材料廠長にまでなっていました。
 
南京は陥落したという、どういう状況だろう。
日中全面戦争は先行きの見通しのない状態。
日本軍の医薬品補給状況や現地の業務状況はどうなっているのだろう。
ぜひ監査をさせて下さいと嘆願し、
1939年3月下旬、誠太郎さんは、上海・南京に赴きました。
上海では、親友の王長春さんに27年ぶりに会うことができました。
王さんは上海市の衛生部担当の副監事をしていました。
そのとき彼から南京市のひどい状況を耳打ちされました。
 
南京を訪問して誠太郎さんの見たもの、
それは目を覆うほどの日本軍の残虐なふるまいの跡でした。
誠太郎さんは、その光景に衝撃を受け、情けなくなり、悲歎に沈み、
親友の王さんに恥じました。
虐殺の行われたところを訪ねては、脱帽し、深く頭を垂れ、
心の中で犠牲者に詫び、冥福を祈りました。
以前南京を訪れたのは、孫文の辛亥革命が成功した翌年でしたが、
孫文は1925年に亡くなり、その墓(中山陵)が紫金山中腹にありました。
その詣りを済ませ、紫金山のふもとに来たとき、
紫色の菜の花とのめぐり会いがありました。
はるか遠くに薄紫の花の群落が目に入りました。
それは現在の南京理工大学付近のようでした。
「そうだ、この花を日本に持ってゆこう」と思いつき、車を止めました。
見ると花の根元に近いところには、
いくつかの種が熟しかけていました。
私服憲兵将校に付き添われている誠太郎さんは、
自由に行動ができませんでしたが、
とっさにその種をポケットに忍ばせました。
「犠牲者の供養の花として日本で咲かせよう」
と決意しましたが、口には出さずにおりました。
しかし、光華門の城壁の下で野良犬に掘り返された
犠牲者のおびただしい白骨を目撃したとき、
「これが天皇の軍隊のすることか」と、思わず口にだしてしまいました。
この一言が憲兵の耳に入り、王さんとの出会いなども含めて
帰国後に、誠太郎さんは問責され、
その年の11月に、表向きは現地派遣部下の不始末を理由に、
待命処分を受けました。
職を解かれて石岡へ帰ってきた誠太郎さんは、嘆くどころか
「ああ清々した。今日から飯がおいしく食べられる」と
嬉しそうに息子の裕さんに言っていました。
それまで沈うつな顔の誠太郎さんが、このときからにこにこ顔になったのです。
そして、持ち帰ったわずか80粒ほどの花の種を大切に蒔きました。
翌年春に芽がでたのは23株でした。
そのわずかな株を大切に大切に育てました。
家族から「何の花なの」と聞かれても
「わからん。とにかく大切にしなさい」とだけ応えていました。
 

 

 

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