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2018年1月

愛と平和の花紫金草5

 
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種子の処理には、選別・水洗・乾燥・消毒という前処と植物検疫の手続き、
そして種子分包の仕事があります。
集荷された種子の山を前に途方にくれていたところ、思わぬ奇跡がおこりました。
ふとしたことである種苗会社の重役方が、この計画に大いに賛同され、
その処理を奉仕的にしてくださることになりました。
まさに地獄に仏でした。
またその難しい検疫の手続きは、これまた幸運なことに、
裕さんと交流の深かった植物検疫所長さんが、
そのめんどうな業務を喜んで引き受けて下さいました。
そのうえ、科学万博会場での検疫証明の業務まで手配してくださいました。
もう一つの難問は、平和のアピールと栽培法解説の翻訳印刷です。
難しいのは、仏、露、西、中、韓、アラビア語などへの翻訳です。
これは裕さんの友人や筑波大講師の先生や筑波大留学生が喜んで引受けて下さいました。
この運動の資金は最大の難問のですが、奇跡は次々と起こるものです。
募金活動は、県条例による許可を得て、大々的に行い、駅前で呼びかけたり、
個人個人にお願いに上がりました。
そのほかいろいろな団体や県外の方にも呼びかけました。
 
1都22県、合わせて5万人以上の方々の浄財が寄せられ、
さらに石岡市議会は、いつの間にか市の支援事業として
満場一致で、支出計上した補助金もいただき、初めの予算額は満たされました。
平和のアピールと栽培法解説の印刷については、
最初に電話交渉した印刷会社が、
偶然にも先の種苗会社の種子袋の印刷を一手に引き受けているところでした。
精巧複雑なイラスト、写真、ロシア、アラビア、中国簡体字、
ハングル文字等の印刷を見事になしとげてくれました。
印刷と種子袋詰めは出来たものの、
これを期日までにリーフレット一枚に一袋づつを
貼付ける手作業が残りました。
これまた大勢の方々が積極的に手分けして、
家庭の手内職さながらに昼夜兼行、
仕事や家事の合間の時間をさいてなしとげてくれました。
このように、多くの高いハードルを乗り越え、進んできましたが、
最重要で最大の難関は、
万博会場での配布活動が出来るかどうかでした。
残念なことに、万博会場では原則的に平和運動その他の社会的運動は禁止され、
国連平和館といえども我々の配布活動を受け入れることが出来ないことになっていました。
大元締めの科学技術庁では、既に23団体の平和団体を門前払いした後でした。
しかしながら我々の運動は、「科学技術を平和のために」という、
その内容は平和日本の開催する科学技術博に最もふさわしいということで、
1985年6月1日から3ヶ月間、
会場の屋根のある休憩所の一角に
配布場所と机、椅子まで無料で提供していただき、
会場唯一公認の平和団体として活動は実行でることになりました。
さらにその場所を明示するポスターを会場各所に掲示するようアドバイスをいただき、
また6月1日には北ゲートでガードマンやコンパニオンも動員して
配布運動開始のセレモニーをするようにとの指示がありました。
思えば劇的な展開でした。
これで嘘をつかずに済むと、涙が出そうになりました。
 
ここで会のメンバーは勇気りんりん、
熱気みなぎる万博会場で真夏の3ヶ月間配布運動は続けられ、
所期の目的の紫金草の種子103万袋を、平和のメッセージを添え、
配布することができました。
筑波科学博覧会での平和アピールは、このように奇跡的に達成できました。
 
それらから5年後の1990年、今度は大阪花の万博の会場でも
6万袋の紫金草の種子を参観者に贈ることができました。
 
  科学技術を平和のために
   科学技術は、人類の歴史上輝かしい発達をとげたが、人類を不幸に誘うべく
   用いられ、そして今や地球環境の破たん、あるいは人類の歴史の終局をもた
   らす能力を持っている。
   科学技術は、地球上のすべての人類の飢えや疾病や災害を克服し、自然との
   調和に基づく豊かな産物が得られるべき環境を確立するために用いられなけ
   ればならない。
   地球は人類にとって共有の、ただ一つの居住である。地球上のすべての民族
   が、平和で安全な住まいで生活する権利を持っている。
   科学技術は人類とともに永遠に共存するものである。科学技術の正しい役割
   は、世界のすべての国民の間の相互理解、相互信頼および相互依存によつて
   保証される。
   科学技術が地球の永遠の繁栄をもたらすか否かは、二十世紀の人類にとって
   最大の責任である。
                             筑波科学博における平和アピール 1985.6.1
 

愛と平和の花紫金草4

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誠太郎さんは、老躯に鞭打って一生懸命働き続けましたが、
疲労が重なり、とうとう病床に伏してしまいました。
しかしまたまだ日本中に花を広めなければならない。
「花の種を差し上げます」と、新聞に投稿してくれないか。家族の人たちに話しました。
誠太郎さんは体も衰弱し、眼もかすみ、声も出なくなりましたが、
厚紙とサインペンを用意させました。
手の力もなくなり、意識がもうろうとしている中、
たどたどしい文字で、「しきんそうたのむ」と書き残しました。
これを最後に、次の日、1966年8月19日、誠太郎さんは亡くなりました。
その二日前には、朝日新聞「声」欄に家族が投書した
「花だいこんの種さしあげます」の記事が掲載され、
多くの問い合わせや「種を分けて下さい」という手紙が届き始めました。
その山積みされた手紙を枕辺に誠太郎さんは永眠しました。
79歳でした。
「種希望」の手紙は来る日も来る日も届き、
1日に何度も配達されました。
石岡郵便局始まって以来だと郵便局員の方も驚いていました。
 
その半月後には、その数6000通にも及びました。
たいへんなのは誠太郎さんの遺族です。
種子の蒔く時期は9月中と迫っています。
しかし、お葬式の前後のとりこみの中、
毎日毎日手紙の宛名と返事の印刷作り、種の分包の仕事の連絡。
不足しそうな種の確保もしなければなりません。
このために市内の数十名の方が宛名書きの手伝いを申し出てくれました。
市内の皆さんも協力して、
二ヶ月後には無事種の発送を終えることができたました。
切手は、返信に必要な金額以上にお金や切手を同封してくれる人が多く、
それらは全て福祉団体に寄付しました。
誠太郎さんが亡くなった後の紫金草を広げる運動は、
裕さんが引き継ぐことになりました。
裕さんもまた、ポケットに種を忍ばせ、
空き地を見つけて、種を蒔く作業を続けてゆきました。
花の季節になると、南の方から順に花便りが全国から届き、
平和の春の到来を告げてくれました。
種を分けてほしいと希望の便りは、それからも続き、
それぞれの方々に種に添えて紫金草のいわれや平和の大切さ伝えてゆきました。
紫金草の種まき、収穫、乾燥、選別、分包、発送といった作業は、
裕さんの大切な仕事となりました。
裕さんはこうした活動を生涯の役目として
父親と同様、毎年毎年こつこつと続けて来ました。
 
 
そしてあるとき、平和の花紫金草を世界中に広める絶好の機会が訪れました。
1985年の筑波科学博覧会に
海外から来るお客さんに紫金草の種を配ろうという
「平和の花だいこんを広める会」の運動が、石岡の市民団体から提案されました。
海外からの参観者は100万人と見積もって、
計画では種子100万袋分最低100キログラム、
250リットルという莫大な量が必要になりました。
このような大量の野生植物の種子を、
素人が短期間で栽培育種することは無理難題というべきものです。
平和への呼びかけ文と栽培法解説のリーフレット作製、
万博参加の交渉、種子の栽培は勿論のこと、
選別・水洗・消毒・乾燥・検疫・分包等の諸作業と、
1千万円近い資金の調達をどうするか、
などなど難問題がたくさんありましたが、
裕さんを会長にして取り組むことになりました。
種子は近在の農家や菜園をお持ちの方、
高校の先生、生徒そのほか庭に余裕のある方々が育種に尽力されました。
また以前に誠太郎さんや裕さんが送った種を増産して、
種を大量に送り帰してくれるなどなどで、
計画発足2年後には、初期の目標の2倍量の種子が確保できました。
まさに奇跡でした。
 

愛と平和の花紫金草3

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日中戦争は泥沼化し、日本は国際的にも批判を受けていたのですが、
それでも軍部の暴走は止むことなく、国内生産資源は底を突いてきたので、
戦略資源獲得に南進政策をとりはじめました。
このため日本は、米・英・中国・オランダの経済封鎖(ABCD包囲陣)の抵抗に遭いました。
そして1941年12月8日、とうとう米・英・オランダにも勝算のない自暴自棄の戦争を仕掛けました。
はじめは日本軍は、猛烈な勢いで、南方各地に侵攻してゆきました。
ところが、やがて蚊に刺され、マラリアに感染し、死亡する兵士達が続発しました。
陸軍では悩んだ末に、誠太郎さんに「マラリアの特効薬キニーネを製造するように」と召集令状を出しました。
 
誠太郎さんは、「俺は殺生ごとは絶対にいやだ」と決めていたのですが、
「現地人も苦しんでいる。人命を救うためです」の一言に、
現役復帰ではなく、司政官の身分で、キニーネの製造所長を引き受けることにしました。
早速ジャワ島に派遣され、工場を拡張増設し、原料のキナの栽培を
ジャワ島全島に拡大し、キニーネを大量に製造しました。
オランダ統制下では、キニーネの価格を高く維持するため、生産量を抑えていたので、
インドネシアの民間人は高価で買えなかったそうでしたが、
量産の甲斐があって、多くの民間人も兵士も尊い命が救われました。
現在もキニーネ工場跡地には現地人の感謝の碑が建てられています。
 
戦争は長引き、武器も、食料も、燃料も、人々の暮らしに必要なもの全てが欠乏し、
もう勝つ見込みがないのに軍部は面子にこだわって降服をしませんでした。
その期に及んで、アメリカは遂に広島と長崎にとどめの原爆を落としました。
そして数十万の尊い命が一瞬にして失われました。
当時薬剤官として呉海軍病院に勤務していた裕さんは、
翌7日、阿鼻地獄の広島の救援活動で二次被爆し、戦後しばらく後遺症で悩みました。
この被爆体験が、紫金草平和運動の原動力の一つでした。
 
長かった戦争も終わり、日本にはようやく澄み切った青空が戻りました。
アメリカの統治下に置かれながらも、
人類社会の理想を目指した、世界で初めての平和憲法を日本人の手で作り上げたのです。
そこには日本は戦争をしない国になるという強い決意が込められていました。
 
ジャワ島から帰った誠太郎さんは、
南京から持ち帰った花の種の増殖に、以前にも増して力がこもりました。
この花を植物図鑑を調べても、その名前が判らないので、
「紫金山の麓から来た花だから『紫金草』とする」と決めました。
裕さんが「『すみれ菜』としたら」と言ったら、
「『紫金草』以外の名は絶対に付けるな」と言っていました。
 
長い歴史のなかで中国と深い信頼で結ばれてきた日本が、武力で中国に攻め入り、
南京や各地で起こしたあの痛ましい惨事を忘れないように、
この花を「戦争犠牲者供養の花」として、日本中に広めようと決心したのです。
 
戦争が終わるまで誠太郎さんは、
この花がどこから来たのか、なぜ栽培しているのかを、
家族や知人にも累が及ぶことを恐れて、誰にも話していませんでした。
戦争が終わり、一年後にジャワから復員し、
日本国内にも、家庭にも本当の平和が訪れたとき、
はじめて、南京でのできごとや花の由来を話しました。
そして誠太郎さんは、小さな空き地を見つけては、
花の種を蒔き広めてきました。
ポケットにいっぱい紫金草の種を詰めて、
出かけるたびに、空き地や線路の土手に種を蒔いてゆきました。
 
そのころ誠太郎さんの仕事は、農家の薬草栽培を指導することでした。
腸内寄生虫の駆除剤となるアメリカアリタ草の栽培です。
その粗製品ヘノポジ油の生産は全国の九五パーセントを茨城で占めていました。
県内各地にはその生産組合ができ、県薬草生産組合連合会長に推挙されました。
1953年、石岡に県立薬用植物研究所が設立されると、その所長に迎えられ、
さらに、茨城県薬草協会ができると、その会長に推されました。
薬草栽培は、米作りの数倍という農家の大きな収入源でもありました。
誠太郎さんは、ついでに紫金草の栽培を一部の農家の人にもお願いしました。
その大量にできた種を、走る汽車の窓からも蒔くことにしました。
乱気流で種は列車の車体の下に巻き込まれ、種は遠くへ飛ばないことがわかると、
小さな土団子の中に紫金草の種を混ぜて、遠くへ飛ばすことを考案しました。
東京近郊の線路伝いに咲く紫金草は、こうして誠太郎さんの蒔いた花でしょう。
 

愛と平和の花紫金草2

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誠太郎さんは、6代続く漢方薬店の長男として生まれました。
漢方薬の材料の多くは、中国から輸入され、
その技術も中国から学ぶものが多くありました。
誠太郎さんにとって、中国は先生のような存在でした。
 
日露戦争後には、中国から多くの留学生が来日しました。
誠太郎さんは東京大学時代に、留学生の王長春さんと出会い、
親交を深めていました。
そして、大学卒業の時、王さんの案内で、
上海、蘇州、南京など見学し、それを写真機に収めてきました。
その写真のなかに故郷の筑波山そっくりの紫金山がありました。
そのとき以来、誠太郎さんにとって南京は
心の故郷となりました。
 
誠太郎さんは大学卒業後、
小倉や熊本の陸軍病院に勤めてから、東大大学院に入り、
薬学の分野で人の命を救うことを研究していました。
第一次大戦後の欧米諸国軍事力増強の中で、
ソ連やアメリカから日本空襲があったとき
市民や兵士をどう守るかがテーマでした。
「毒ガスから身を守る方法」
「野外で安全な水を得る方法」
「新しい治療薬の製造法」など次々に発表していたので、
陸軍からも高い評価を受け、
日中全面戦争の前年には、
陸軍衛生材料廠長にまでなっていました。
 
南京は陥落したという、どういう状況だろう。
日中全面戦争は先行きの見通しのない状態。
日本軍の医薬品補給状況や現地の業務状況はどうなっているのだろう。
ぜひ監査をさせて下さいと嘆願し、
1939年3月下旬、誠太郎さんは、上海・南京に赴きました。
上海では、親友の王長春さんに27年ぶりに会うことができました。
王さんは上海市の衛生部担当の副監事をしていました。
そのとき彼から南京市のひどい状況を耳打ちされました。
 
南京を訪問して誠太郎さんの見たもの、
それは目を覆うほどの日本軍の残虐なふるまいの跡でした。
誠太郎さんは、その光景に衝撃を受け、情けなくなり、悲歎に沈み、
親友の王さんに恥じました。
虐殺の行われたところを訪ねては、脱帽し、深く頭を垂れ、
心の中で犠牲者に詫び、冥福を祈りました。
以前南京を訪れたのは、孫文の辛亥革命が成功した翌年でしたが、
孫文は1925年に亡くなり、その墓(中山陵)が紫金山中腹にありました。
その詣りを済ませ、紫金山のふもとに来たとき、
紫色の菜の花とのめぐり会いがありました。
はるか遠くに薄紫の花の群落が目に入りました。
それは現在の南京理工大学付近のようでした。
「そうだ、この花を日本に持ってゆこう」と思いつき、車を止めました。
見ると花の根元に近いところには、
いくつかの種が熟しかけていました。
私服憲兵将校に付き添われている誠太郎さんは、
自由に行動ができませんでしたが、
とっさにその種をポケットに忍ばせました。
「犠牲者の供養の花として日本で咲かせよう」
と決意しましたが、口には出さずにおりました。
しかし、光華門の城壁の下で野良犬に掘り返された
犠牲者のおびただしい白骨を目撃したとき、
「これが天皇の軍隊のすることか」と、思わず口にだしてしまいました。
この一言が憲兵の耳に入り、王さんとの出会いなども含めて
帰国後に、誠太郎さんは問責され、
その年の11月に、表向きは現地派遣部下の不始末を理由に、
待命処分を受けました。
職を解かれて石岡へ帰ってきた誠太郎さんは、嘆くどころか
「ああ清々した。今日から飯がおいしく食べられる」と
嬉しそうに息子の裕さんに言っていました。
それまで沈うつな顔の誠太郎さんが、このときからにこにこ顔になったのです。
そして、持ち帰ったわずか80粒ほどの花の種を大切に蒔きました。
翌年春に芽がでたのは23株でした。
そのわずかな株を大切に大切に育てました。
家族から「何の花なの」と聞かれても
「わからん。とにかく大切にしなさい」とだけ応えていました。
 

 

 

愛と平和の花紫金草1

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関東平野には、どこからでも見える山があります。
古くから万葉集にも多く詠まれた山、それは筑波山です。
筑波山には、ブナの原生林や珍しい植物がたくさんあります。
多くの鳥や昆虫たちが生まれ育ってゆくところです。
 
早春、寒さの残る中で梅の花が咲き、
桜の芽花もほころぶ頃、
筑波山のふもとのあちこちに、うす紫の菜の花が咲きはじめます。
それはどんな花かご存じでしょうか。
その花こそ、日本名『紫金草』と名付けられ、
皇居の三の丸公園をはじめ、山手線沿いに咲き誇り、
ビルの都会に安らぎを与える花となりました。
人の心から心へと、平和を願って、日本各地に播き広められてきたうす紫の菜の花です。
紫金草と名を付けた人は、山口誠太郎さんという
1888年に、筑波山のふもとの町、石岡で生まれた人です。
朝な夕な筑波山を見て育ってきました。
 
誠太郎さんの生まれたころの日本は大きな変革の時代でした。
長い間、鎖国をして外国との交流を禁じていた日本は、
鎖国を解き、外国との交流がはじまると、
ヨーロッパの強国は、弱小国を植民地にしたり、
資源を収奪したりしていました。
これらの有様を見て、日本もヨーロッパに負けない強国になろうと、
国を挙げて軍備を整え、兵力を増強し、富国強兵の道を歩みはじめました。
そして日清戦争、日露戦争で勝利した日本は、
自信過剰の、好戦的で、他民族をさげすむファシズム国家となり果てました。
 
ヨーロッパの強国は、以前から中国を支配下におこうと、
あれこれ対策を練っていましたが、
隣国である日本こそが中国を支配するのだと、その機会をねらっていました。
日露戦争でロシアから奪った南満州鉄道の権益を守る軍隊を送り込んでいましたが、
1931年南満州鉄道爆破という、自作自演の事件で、自衛のためと称して、
一挙に満州を占領し、傀儡政権「満州国」を作り上げ、植民地としました。
 
続いて、1937年7月7日に蘆溝橋事件を機に日本軍は全面戦争に突入しました。
戦争は翌月には上海に飛び火し、それに勝利した日本軍は南京攻略を目指しました。
途中、食糧の備えもないまま、食糧現地調達と称して、
中国民間人からの強奪を繰り返しながら進攻してゆきました。
日本軍の行く先々、どこでも多くの中国人民の犠牲者がでました。
そしてついに、首都である南京まで攻め入り、
そこで更に多くの南京市民の犠牲者を出したのです。
その頃日本では、南京陥落を祝い、提灯行列や旗行列を行ったりしていました。
南京で何が起こっているのだろう。南京市民はどうしているのだろう。
そのことをとても心配している1人の薬学者がおりました。
山口誠太郎さんです。